母と終活

母がなんとなく置いていた空き箱を、一緒に見直して気づいたこと

母と終活
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11月の風が少し冷たくなると、家の中の空気まで静かに変わります。季節の変わり目は、なぜか片づけに目が向きやすくなるもの。この日は、リビングの隅に積まれた空き箱を前に、母と少しだけ“物の置き方”について話す時間になりました。捨てる・残すというより、「なんとなく置いていた理由」が、ふっと見えた瞬間のことを、そっと書いてみます。

冬が近づくと気になり始めた、空き箱の山

朝の空気がひんやりとして、玄関を開けた瞬間に冬の気配を感じるようになりました。
そんな季節になると、部屋の片づけにも自然と目が向きます。

リビングの隅に積まれた段ボールの山を見て、「そろそろ、ここも見直してみようか」と母に声をかけました。

母はいつもの穏やかな笑顔で、
「そうだねぇ、見てみようか」とうなずきます。

反論するでもなく、否定するでもなく、私の言葉をやわらかく受け止める母らしい返事でした。


母の中には“手放す”という概念がなかった

空き箱をひとつ手に取ると、
隣で一緒に見ていた母が、その箱に目を向けて言いました。
「それね、何かに使えると思って置いてたの」

取り返したり、慌てて止めたりするわけではなく、
ただ、思ったことをそのまま言っただけ。

母にとって空き箱を置き続けることは、
「捨てるかどうか」を判断することではなく、
「ここに置いておくのが普通」という感覚に近かったのだと思います。

きっと、“手放す”という意識そのものがなかったのでしょう。



あると安心する、という感覚

「使う予定があるわけじゃないんだけどね」
母はそう言いながら、いくつかの箱を眺めていました。

母にとっては、使うかどうかよりも
“そこにあること”が落ち着く理由になっていたのかもしれません。

父の物のときもそうでした。
何かに使うためではなく、そばにあることで気持ちが安定するものって、
人にはそれぞれあります。

私はその感覚を否定したいわけではありません。
無理に減らす必要はなくて、
母が「これは残したい」と思える形になれば、それで十分だと思いました。


少しだけ見直すことで生まれた余白

「この中で、使うかもしれないと思うものってある?」
と聞くと、母はいくつか手に取りながら、
「これは置いておこうかな」
と選んでいきました。

ひとつに絞る必要はなく、
母が“残しておきたい”と思えるものを、そのまま残す。
今日はそのくらいでちょうどよかったのだと思います。

空き箱の山が少し低くなると、
部屋の隅にわずかな余白ができました。

大げさな片づけではないけれど、
“気持ちよく置いておける量”になっただけで、
空気が少し軽くなったように感じました。






無理に減らす必要はなくて、
母の「ちょうどいい」と
私の「ちょうどいい」を探しながら、
少しずつ暮らしを整えていくだけでいい

冬の入り口に、そんな小さな余白が生まれた日のことでした。