母と終活

父がいた頃の私の痛みと、言えなかったままの気持ち

母と終活
この記事は約3分で読めます。
記事内に広告が含まれています。



父と過ごしていた頃の私は、しっかり者だと言われる一方で、素直に甘えることができない子どもでした。妹を羨ましく思った気持ちや、父に言えなかった言葉。子ども時代の痛みを振り返ると、今になってようやく見えてきたことがあります。


子どもの頃の私は、よく「しっかり者」だと言われていました。
体も丈夫で、勉強も運動もそこそこできて、困ることもあまりない。
大人から見れば扱いやすい子どもだったのかもしれません。

でも、あの頃の私は、妹が羨ましかった。

妹は体が弱くて、よく泣いて、宿題を最後まで抱えては母と父に手伝ってもらっていた。
父に頭を撫でてもらって泣きながら甘える妹の姿が、子どもの私には眩しかった。

私は、あれを一度もしてもらった記憶がない。
忘れているだけかもしれないけれど、
気づいた時にはもう、素直に甘えるという選択肢は私の中から消えていた。

父が私のことを誇らしく思ってくれていたと知ったのは、大人になってからだった。
母から「父はあなたのことを自慢していたよ」と聞いたとき、
胸の奥に静かに何かが落ちていった。

どうして直接言ってくれなかったんだろう。
いや、言ってくれていたのかもしれない。
私が聞く耳を持っていなかっただけで。




私は父のことが「嫌い」だったわけじゃない。
でも“怖い”と“嫌だ”は、子どもにとってはほとんど同じ感情だ。

地域の親子会で、父が酔って陽気になった姿を友達に笑われたことがある。
あれがショックで、恥ずかしくて、
その日を境に、父をまっすぐ尊敬する気持ちはどこか折れてしまった。

今思えば、ただの“若い父の失敗”だった。
あのときの父は今の私よりずっと若くて、
大きな責任を抱えて必死に働き続けていたのに。

でも当時の私はそんなこと考えもしなかった。
父の疲れも孤独も知らなかった。


そして私の人生には、もうひとつ大きな“痛みの源”がある。

子どもの頃から私は、
「家を継ぐ前提」
で育てられていた。

「お嫁に行く」という普通の夢を持ってはいけないと思っていた。
“婿養子をとる未来だけ” が、最初から決まっているように感じていた。

反発もしたし、衝突もした。
それが理由で終わった恋もあった。

父は私に安定した人生を送らせたくて、地元の役場への就職を勧めていた。
でも私はやりたい仕事があって、それは地元にはなかった。

私の中にはいつも、
“父への反発”と
“父の期待に応えたい気持ち”と
“そのどちらにもなれない自分への苛立ち”が入り混じっていた。

父と距離を縮められなかったことを、私は後悔している。

思春期の私には父と話す勇気も、距離を縮める柔らかさもなかった。
あれはあれで仕方ないと思っている。
あの頃の私は精一杯だった。

でも——
「父さんはすごいね」
「私たちのためにいつもありがとう」
この二言だけは、言えたはずなのに。
一度も口にしなかった。


父が触れてこなかった優しさは、
本当はそこにあったのかもしれない。
私が壁をつくり続けていただけで。

父の孤独について語るのは、正直ちょっと烏滸がましい。
父には母がいたし、私はそこに入り込むような存在じゃなかった。

でもあとから知った。
帯状疱疹をこらえて働いていたこと。
誰にも弱音を吐かなかったこと。
周りから誤解されていたこと。

今なら、それは“妬み”だったとわかる。

私はただ、
「私にもできたはずの小さな助け」
「言えたはずのひと言」
それらを差し出せなかったことが痛い。

父の気持ちに目を向ける余裕が、あの頃の私にはなかった。

父がもういない今、
私はようやく、自分が抱えていた痛みのかたちが見えてきた。

強がっていた自分。
素直になれなかった自分。
甘えられなかった子ども時代。
父を遠ざけたまま大人になった私。



その痛みを抱えたまま、いま私は母を大事にしようとしている。

それはきっと、
父の背中からもらった最後の優しさ
なのだと思う。