母と終活

父がいた頃の私の痛みと、言えなかったままの気持ち

母と終活
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父と過ごしていた頃の私は、しっかり者だと言われる一方で、素直に甘えることができない子どもでした。妹を羨ましく思った気持ちや、父に言えなかった言葉。子ども時代の痛みを振り返ると、今になってようやく見えてきたことがあります。


子どもの頃の私は、よく「しっかり者」だと言われていました。
体も丈夫で、勉強も運動もそこそこできて、困ることもあまりない。
大人から見れば扱いやすい子どもだったのかもしれません。

でも、あの頃の私は、妹が羨ましかった。

妹は体が弱くて、よく泣いて、宿題を最後まで抱えては母と父に手伝ってもらっていた。
父に頭を撫でてもらって泣きながら甘える妹の姿が、子どもの私には眩しかった。

私は、あれを一度もしてもらった記憶がない。
忘れているだけかもしれないけれど、
気づいた時にはもう、素直に甘えるという選択肢は私の中から消えていた。

父が私のことを誇らしく思ってくれていたと知ったのは、大人になってからだった。
母から「父はあなたのことを自慢していたよ」と聞いたとき、
胸の奥に静かに何かが落ちていった。

どうして直接言ってくれなかったんだろう。
いや、言ってくれていたのかもしれない。
私が聞く耳を持っていなかっただけで。




私は父のことが「嫌い」だったわけじゃない。
でも“怖い”と“嫌だ”は、子どもにとってはほとんど同じ感情だ

地域の親子会で、父が酔って陽気になった姿を友達に笑われたことがある。
あれがショックで、恥ずかしくて、
その日を境に、父をまっすぐ尊敬する気持ちはどこか折れてしまった。

今思えば、ただの“若い父の失敗”だった。
あのときの父は今の私よりずっと若くて、
大きな責任を抱えて必死に働き続けていたのに。

でも当時の私はそんなこと考えもしなかった。
父の疲れも孤独も知らなかった。


そして私の人生には、もうひとつ大きな“痛みの源”がある。

子どもの頃から私は、
「家を継ぐ前提」
で育てられていた。

「お嫁に行く」という普通の夢を持ってはいけないと思っていた。
“婿養子をとる未来だけ” が、最初から決まっているように感じていた。

反発もしたし、衝突もした。
それが理由で終わった恋もあった。

父は私に安定した人生を送らせたくて、地元の役場への就職を勧めていた。
でも私はやりたい仕事があって、それは地元にはなかった。

私の中にはいつも、
“父への反発”と
“父の期待に応えたい気持ち”と
“そのどちらにもなれない自分への苛立ち”が入り混じっていた。

父と距離を縮められなかったことを、私は後悔している。

思春期の私には父と話す勇気も、距離を縮める柔らかさもなかった。
あれはあれで仕方ないと思っている。
あの頃の私は精一杯だった。

でも——
「父さんはすごいね」
「私たちのためにいつもありがとう」
この二言だけは、言えたはずなのに。
一度も口にしなかった。


父が触れてこなかった優しさは、
本当はそこにあったのかもしれない。
私が壁をつくり続けていただけで。

父の孤独について語るのは、正直ちょっと烏滸がましい。
父には母がいたし、私はそこに入り込むような存在じゃなかった。

でもあとから知った。
帯状疱疹をこらえて働いていたこと。
誰にも弱音を吐かなかったこと。
周りから誤解されていたこと。

今なら、それは“妬み”だったとわかる。

私はただ、
「私にもできたはずの小さな助け」
「言えたはずのひと言」
それらを差し出せなかったことが痛い。

父の気持ちに目を向ける余裕が、あの頃の私にはなかった。

父がもういない今、
私はようやく、自分が抱えていた痛みのかたちが見えてきた。

強がっていた自分。
素直になれなかった自分。
甘えられなかった子ども時代。
父を遠ざけたまま大人になった私。



その痛みを抱えたまま、いま私は母を大事にしようとしている。

それはきっと、
父の背中からもらった最後の優しさ
なのだと思う。