夫と暮らしを別にするようになってから、
私は「夫婦」という言葉の意味を、前とは少し違って考えるようになりました。
一緒に生活をする相手、というよりも、
同じ方向を見ながら、それぞれの場所で生きている人。
そんなふうに感じた出来事が、いくつかあります。
今日はその中のひとつを書いてみます。
体調のことを、あとから知った日
ある日、夫から連絡がありました。
内容はとても簡単なもので、
「少し体調を崩していた」という報告でした。
大ごとではなかったけれど、
その時すでに回復に向かっているという話でした。
離れて暮らしていると、
相手の変化は、こうして「あとから」知ることが増えます。
すぐに何もできない距離
心配になっても、
すぐに何かをしてあげられる距離ではありません。
「大丈夫そうでよかったね」
「無理しすぎないでね」
それくらいの言葉を返すことしかできませんでした。
もし同じ家に住んでいたら、
様子を見たり、何か食べるものを用意したり、
もっと直接的に関わっていたのかもしれません。
それぞれの場所で、同じ流れの中にいる感じ
電話を切ったあと、
私はいつも通り家の用事をして、仕事に行き、
母と夕飯を食べました。
夫も、きっと自分の場所で、
自分の生活に戻っていたのだと思います。
同じ時間帯に、別の場所で、
それぞれが自分の一日を続けている。それなのに、
なぜか「離れている」という感覚よりも、
「同じ流れの中にいる」ような感じがありました。
支え合うというより、並んで進んでいる
そのとき、
私はふと「支える」という言葉よりも、
「並んで進む」という言葉のほうが近いと思いました。
困ったときにすぐ手を差し伸べる関係ではない。
でも、相手が倒れないように、
少し離れた場所から見ている感じ。
それが私にとっては、
「伴走者」という言葉にいちばん近い関係に思えました。
「一緒に暮らす」だけが、夫婦じゃないと思うようになった
結婚したばかりの頃は、
夫婦とは「一緒に生活するもの」だと思っていました。
でも今は、
生活を共有していなくても、
どこかでつながっている形があると感じています。
その形が正しいのかどうかは分かりません。
ただ、今の私たちには、
この距離とこの関係が、無理なく続いています。
まとめ
“伴走者”という言葉が、いまの私たちに近い
夫の体調の変化を、あとから知ることがある
すぐに何もできない距離にいる
それぞれの場所で、同じ時間を生きている感覚がある
支えるというより、並んで進んでいる関係に近い
夫婦の形も、いつの間にか変わっていた
一緒にいない時間のほうが長い今、
私は夫のことを「生活の相手」というよりも、
「人生を並んで進んでいる人」と感じることが増えました。
それが良いのかどうかは分かりませんが、
今の私には、それがしっくりきています。
▶ 夫婦の記録はこちら
