母と終活

父の残した工具に触れると、見えてくるものがある

母と終活
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父の残した道具を何気なく手にしたとき、その向こう側にあった父の毎日や気持ちのようなものが、少しずつ見えてくることがあります。平台車の裏の字や、手に馴染むスケールの感触に触れるたびに、父がここで過ごした時間を静かに思い出します。




父が使っていた工具のいくつかは、今も家の中や車庫で現役です。
外の車庫に置いてある平台車もそのひとつ。父が自作したもので、サイズ違いが何台か残っています。木材を組み合わせ、使いやすい高さに調整されたそれらは、汚れこそあるものの十分に丈夫で、今も問題なく使えます。

平台車を裏返すと、油性ペンで書かれた日付と父の名前が残っていました。
道具や家具をつくったり買ったりしたとき、父が決まって書いていた“印”のようなものでした。

図面を広げていた父の姿も思い出します。
子どもの頃にはよくわかっていなかったけれど、大人になって残されていた図面を見ると、細かいメモや計算がびっしり書き込まれていて、
「毎日こんなふうに丁寧に仕事をしていたんだろうな」と思えるようになりました。

また、父はいつもスケール(メジャー)を持ち歩いていて、
作業着や鞄のポケットに必ず一本入っていました。
その小さな習慣からも、仕事を進めるうえでの“扱いやすさ”や“段取り”を大切にしていたことが、どこか伝わってくる気がします。

父の道具には、
「使えるものは最後まで使う」
「必要なら自分で工夫して作る」
という、一貫した姿勢がありました。

今、私がDIYで使っているメジャーのひとつは、父のものです。
手に馴染みがよく、長さを測るたびに、どこか父の癖のようなものが伝わってくる気がします。

汚れが残った工具や、つぎはぎされた平台車を見ると、父がどれほど忙しく、めまぐるしい日々を送っていたのかが浮かびます。
もっと手伝えることはあったのに、その大変さに気づけなかった――今になって、そんな思いが静かに胸に広がります。


父が家でお酒を飲む姿は、子どもの頃の私には少し苦手でした。
でも今思えば、それは一日をやり切ったあとの、短い休憩のようなものだったのだと思います。


工具についた汚れや、平台車のつぎはぎ、
古い図面にびっしり書き込まれたメモの跡。
そこには、父がどれだけ忙しく、必死に手を動かしていたのかが、静かに残っています。



父の工具は、形を変えずに今も私のそばにあります。
平台車を押したときのずっしりした重みや、
手に馴染むスケールの感触に触れると、
ふと「父はたしかにここで生きていたんだ」と思う瞬間があります。


家族を支えるために働いて、
ものを作り、工夫して、
毎日を積み重ねていた父。
その姿が、今になってようやく浮かび上がってくる気がします。